「○○できていない自分に気が付いていないって、恥ずかしいですよね?」
職場の人と話をしていて、こんな表現をする人がいました。
なんかこの表現にちょっと違和感を感じました。この違和感はなんでしょうか。
きっと、その人が誰かに言われた言葉か、周りの誰かが言っていた言葉なんだろうと思います。「恥ずかしい」が行動の基準なんですかね。とても興味深く感じました。
その話題の後にその人とお互いの高校の低い学力の低さに笑い合いました。
今思えばそこでも違和感。
きっと、偏差値の低い学校に行っていたことや、こんな話を笑っていることも、誰かにしたら、「恥ずかしい」話になると思うんです。
しかし、普通に自分たちの学歴が低い話を話してたんです。これは、その人にとって恥ずかしい話ではなかったんですかね。
誰でもそうかもしれませんが、人のことを話すときはいろいろ言うけれど、自分のことを言う時は、意外と勘定に入っていなかったりするんですよね。
「恥ずかしい」という話題について考えていて、学生の頃、叔母に言われた言葉が自分の1つの基準になっていることに気が付きました。
中学生の頃、不登校をしているときに、
「恥ずかしいとことはするなよ」
と言われました。
それを言われて、学校に行っていなかった私は、日中に近所を歩く時に、胸を張って歩くようになりました。変わった子どもだったんですね(笑)すいません。
ちょっと解釈は違いますが、私の中でも「恥ずかしい」は1つの基準だったかもしれません。
周りの人が気が付いていたのに、自分だけ気が付いてなかったことありますよね?
確かに、その時は恥ずかしいです。でも、人生は人それぞれ。自分にとって気が付くタイミングが今だった。それだけの話です。
今はネットで調べると、同じ境遇の人が何万人も出てきます。それで、自分だけなんてことはないし、外国の違う文化に住んでいる人にとっては、どうでもいいことです。
文化が違えば違うのは当たり前じゃんと思うかもしれませんが、多様化した現代、同じ日本人であっても、もう既に、人それぞれが違う文化を持った人と捉えても良い時代なんじゃないですかね。
(そう考えると、恥ずかしい気持ちというのも尊重したほうがいいですね。話が脱線しすぎるのでやめます。)
話が風船のように膨らんでしまいましたが、今回、「恥ずかしい」から学べたことは、
・人の基準は人それぞれ。
・誰でも人のことを話すときは、自分のことは見えなくなってしまう。
・新しい知識や情報を入れて、解釈を変えていけば、恥ずかしさはなくなっていくと思った。
ということでした。
ここまで書いて、最初の違和感に気が付きました。やっぱり自分は、他人を評価できるほどの人間じゃないなぁという所ですね。他人を評価できる人がいるのかなぁ?とも思っている自分もいるんですかね。それはまた別のお話。反省、勉強、精進。周りの人を見習って、もう少し胸を張った大人な自分になれたら良いと思った曇り空の山形のコーヒーショップからお送りしました。
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